練習をつづけること
毎日、毎日練習すること。
その長さは別として、この4月から取り組んできたのは、結局これでした。
それ自体が、自分の心と向き合う練習でもあったと感じています。
現在進行形です。
最初、10分の練習をするのにも苦しみました。
「できない」という思い、考えにとらわれるのが、ちょうどそのくらいの時間帯、
そして回数でいえば3回目くらいからだったでしょうか。
その時期に、繰り返し思い出していたのは、「出来栄えを気にせずやりつづけること」
という先生からの言葉でした。
一方これは、出来栄えを気にしてしまうことを自分で責めてしまって
なかなかうまくいきませんでした。
考えてみれば、この「できない」という思いとの戦い?の中での数か月でした。
ある時は、人に「お前はできなかろう」と言われれば「何くそ」と思うはず、と考え、
紙にでかでかと、「できない」と書いて壁に貼っていたこともありました。
それは結構効果があって、できないという言葉が外から聞こえてくるようになってきました。
できない、と自分が自分にいう言葉として頭の中で響いているうちは、
どうしてもそこから逃れられなかった。
けれども、それが外に出た瞬間に、外からくる言葉として距離がとれるようになった。
そういう感じでした。
それをひと月ほど繰り返して、練習時間自体が少しずつ伸びていきました。
伸ばそうという気はなく、自然に。
次に現れてきたのは、身体を使う、というキーワードでした。
去年の『藪の中』の時から、どうしても「語る」ということのイメージがつかめませんでした。
先生のいう、「いい舞台」のイメージがどうしても捉えられなかったのです。
そのため、何に向けて練習していいかが、わからなかった。
それでも自分自身は何かここで学ぶことに予感を持っている、
見通し難い二つのもやもやの間で、気持ち悪い思いをしていたのです。
その中で、自分は何を予感してここに通ってきているかを問い直そうと思った時があり、
それは結局、「身体」だ、ということに思い当りました。
「身体を使って表現をすること」を求めている。
ということで、身体との付き合いが始まり、そのころ、「歩く」「走る」というキーワードが、
自分の身体に落ちてき始めました。
実際に歩いたり、走ったりを毎日続ける、ということがそれを促してくれました。
その頃になると、10分だった練習時間は数時間になってました。
さて、ところが、この間にも問題は山積みでした。
「できない」ということから距離を置けるようになったら、次には、
「できなくてもいい」のか、という考えがあらわれてきます。
けいこ場で先生に言われること、こうしてくれ、といわれることはあるわけです。
それがあるからこそ、「できない」とも思う。
また同時に、練習する必要も当てられるわけです。
しかし、できない、と思えば思うほど、身体は重くなる。
その「できない」という思い、から距離をとる、すると、
ここで「意欲」の問題があらわれるのです。
練習をするとき、まず第一に「判断を手放すこと」があるとすれば、
その次には、意欲を持ってとりくむこと、です。
距離がとれると、ただ量をこなすこともできてしまう。
それでは心持ちが悪い。
ところが意欲を出そうとすると、判断がむくむくと起き上っても来るのです。
意欲が、できるようになろう、という方向に働くからでしょう。
ここは、いっけん袋小路のように思いました。
光は意外なところからさしてくるもので、
そこから一歩を踏み出すきっかけを与えてくれたのは、
「意識」という言葉でした。または「観察」です。
先生は、くりかえし、「その時の身体や心の状態を観察してみてください」と言われます。
そして意欲を、「できるようになろう」ではなく、「観察しよう」に振り向けることは、
比較的簡単にできるのです。
どんな状態になっているだろう、としっかり見ること。
それは端的に楽しい作業です。
おそらく、判断を手放し、意欲を持ってとりくむこと、というのは、
「成果への愛でなく、行為への愛」という言葉に集約されているのでしょう。
「毎日練習をする」ということに取り組むだけでも、何重にも絡み合った自分が見えてきます。
少なくとも、これを続けよう。
そう思っています。
ここで書いたことは、文脈の都合上、まるで自分で気づいたように書いていますが、
講座で語られたことや、稽古場やその他で先生に語っていただいたことが、反映されています。
やはり、この言語造形という芸術も、あるところまでは、「科学」なのですね。
「精神科学」。
扱う素材は、みずからの精神とこころとからだと呼吸と声。
つまり、人まるごとなのですね。
そこに生きた法則を見出していくためには、
その素材に対する敬いと尊びの念(おも)いを育んでいくことが前提となります。
(自然科学者もこのことの重要性にどんどん気づいてきているようです)
みずからに対するそのような念いをどう育んでいくか。
そのことをMさんは、やはり仕上がり済みの答えを求めることへの違和感から、
みずから、苦闘して、それを見出す道を、もう、歩んでいるのですね。
自分自身で問いを立て、その答えをその都度見出し、また、その答えにずれを感じて、
また新しく問いを立て直す。
この繰り返しが、その人をその人にしていきます。
借り物ではない、その人のことばが花開くまでのプロセスは、やはり一筋縄ではいかないものではないでしょうか。(諏訪)