2008年09月17日

チラシできました!

宮沢賢治フライヤー.gif  宮沢賢治裏面.jpg


語り芝居 宮沢賢治 「呼吸する世界」

わたしたちが生きているこの世界の深さ、浅さ
それはひとりひとりの人間の生き方の深さ、浅さに対応している。
世界をどう捉えるかは、ひとりひとりの人に任されている。

宮沢賢治が世界を、人生を、どう捉えていたか。

語り芝居というスタイルで
彼の世界観・人間観にこころから迫ってみたいのです。

この舞台を通して、現代を生きるわたしたち
ひとりひとりの世界観・人間観が
あらためて見直されることを目指して。



/ 日時・場所 

 ・姫路公演 : 2008年11月1日(土) 開場13:30 開演14:00

     兵庫県姫路市環境ふれあいセンター (tel 079-235-2268)
         山陽電鉄西飾磨駅 徒歩1分

 ・大阪公演 : 2008年11月2日(日) 開場13:30 開演14:00
  
     大阪市立住吉人権文化センター 1F 大ホール (tel 06-6674-3731)         
         南海高野線「住吉東駅」下車徒歩5分、  阪堺上町線「神ノ木駅」下車徒歩3分


/ プログラム 

  「注文の多い料理店 序」
  「サガレンと八月」
  「手紙1 (竜の物語)」
  「学者アラムハラドの見た着物」

  休憩

  「手紙2 (王と娼婦の物語)」
  「なめとこ山の熊」


/ 出演  : 伽音 経子 ・ 榊 法子 ・ 佐野 孝代 ・ 諏訪 千晴
         乃村 葉子 ・ 花岡 宗憲 ・ 吉田 史子 ・ 諏訪 耕志


/ 音楽  : 吉田 幸平 (Henlywork


/ 演出  : 諏訪 耕志 (「ことばの家」主宰)


/ 入場  : 1000円 (子ども 500円)
       (お席に限りがありますので、なるべくお早めにお申し込み下さいますようお願い申し上げます)


/ お申し込み・お問い合わせ   「ことばの家」 

                     姫路公演後援 姫路こころの事業団 
                      TEL:079-247-0250 FAX:079−228-6581


るんるん 「ことばとドラマのためのシュタイナー学校」09年4月からの第二期生も募集します。 
http://www.kotobanoie.net/drama.html

posted by kotobanoie at 16:51| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月30日

ありがとうございました! (諏訪耕志)

大柳生に近い奈良の山奥で二日間、
素晴らしい合宿の時間を過ごすことができました。
これも参加してくださった皆さんの言語造形に対する熱い気持ちと、
温かな思いやり、気遣いのお陰です。
本当にありがとうございました。
posted by kotobanoie at 17:11| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ロゴスの力 (ちまる)

合宿3.jpg  合宿2.jpg


この夏、最後のイベント、ドラマクラスの合宿を終えた。
緑多き奈良の山で、皆と言語造形に集中した二日間を送った。

私は乳飲み子も含め二人も子どもを抱えているにもかかわらず、
仲間たちがたくさんサポートしてくれたおかげで、無事参加することができた。
なんと、なんとありがたいことだろう!


さてこの二日間では、
“子音の造形” というものの面白さを、より深く体験したように思う。


 「ことば」とは、エーテル体(生命体)のはたらきの一つである。

 そしてこの世の形あるもの、あらわれの中では、
 「ことば」だけに、「ロゴス」が直接開示される。

 それは、形における、精神の純粋な顕現であり、
 その音の形は、目でとらえるのではなく、動きの中で感得するものである。



「ロゴス」とは、ものを創りだす力、生命の叡智のことだそうだ。

ということは、
私たちが「ことば」を発するとき、そこには純粋な精神の世界から、
「生命の叡智」が、その都度降りてくるということになる。

これをリアルに体感できるのが、言語造形で「子音の造形」をしているときだと思う。
自分の語るテキストの一音、一音を、
ものすごく繊細に、且つ身体全体を使って、その音に沿って響かせてみる。

すると、頭では思いもよらなかった、その「ことば」の豊かさが、
瞬く間に空間に立ち上がる。

そしてその豊かな音は、
発している者、聞いている者のこころを動かし、生き生きとさせる。

今回の稽古の中でも、こんな瞬間を何度か体験することができた。


エーテル体(生命体)である「ことば」に、
精神の世界から、生命の叡智である「ロゴス」が降りてきたとき、

人は、ほんとうに生命感にあふれ、生き生きとするのだ!



合宿が終わって、子連れでなんとか家に辿り着き、夕飯の支度をして食事を終え、
後片づけをしているとき、ふと気がついた。

「あれ?私、なんだかまだ元気だぞ?」


確か行く前日までは、やや体調が悪かったのだ。
頭痛がしたり、家事がおっくうに思えたり、外に出るのが嫌になったり。
また自分に対する無価値感に苛まれるときさえあった。

でも今は、肉体的にも精神的にも、なんだか元気になっている!


夜の宴会のとき、メンバーの1人が、オランダのストーリーテラーであるウィムさんの
話をしてくれたのを思い出す。
彼によると、日本人は今、切実に“語り”の力を必要としているように感じたそうだ。

語りの力。
それはもしかして、この「ロゴス」の力なのではないだろうか。

この生き生きとした、ワクワクするような生命感を、
もしかしたら今、私を含め、多くの日本人が必要としているのかもしれない。
posted by kotobanoie at 16:52| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月04日

芸術とは (ちまる)

ドラマクラスも夏休みに突入。
産後3ヶ月ほどクラスをお休みしていた私にとっては、ちょっと淋しい感があるけれど、
4月から4ヵ月間みっちり稽古を続けてきた仲間たちにとっては、きっと大きなリフレッシュタイム
なんだろうな。


今日の日記は、
昨日のテオゾフィー講座で学んだ一言を記しておこうと思う。

 芸術とは、
 自然の秘密を
 ときほぐすものである。


シュタイナーも尊敬していたというゲーテによることば。
そして、芸術家とはその秘密(=精神)を人々に提示する人・・・

今私たちが取り組んでいる宮沢賢治にも、まさにこのことを感じる。
彼がときほぐしてくれた自然の秘密を、この秋、私も己に宿る言霊によって響かせたい!

11月2日(日)、皆さんどうぞ、予定を空けておいてくださいね☆

posted by kotobanoie at 15:24| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月30日

意味にとらわれない (ちまる)

前回の稽古では、「自然な呼吸」というものにこだわって取り組んでみたが、
すると今度は、私なりの呼吸=いつもの「自分のペース」による語り方になってしまい、
もっと「物語のペース」にそった呼吸をするようにと指導を受けた。

私が取り組んでいる物語のペースとは・・・
広大なインドのガンジス川が、ある女の祈りでさかさまに流れ出すお話・・

もっともっとダイナミックに、人と自然のあり方を表現してみたいと思った。

そこで今日の稽古では、「ういろう売り」のノリで、
勢いをもってダイナミックに語るようにトライしてみた。

ただ、勢いを持って語るなかにも、
一つ一つのことば、その一音、一音を明瞭に外に響かせることが大切だと教わる。

ゆっくり、はっきり、くっきりと、
ことばを"外"へ造形する・・・まるで歌舞伎のように。

特に女が「わたしは〜な女である」と自己表明するセリフは、
娼婦という立場でありながらも、自己信頼に満ちた輝きのある、凛として堂々とした語り。

私自身の生き方のために、これを会得することは大切であるような気がした。

「自己信頼に満ちた輝きのある、凛として堂々とした語り」
こうした語り、こうした声は、その人の真っ直ぐに立つ姿勢から生まれてきます。
その力まず、真っ直ぐに立つ姿は、その人のこころの安らかさと確かさを顕しています。
この語りとの出会いを通して、自分自身の内なるこころのありようをも見つめていくことができたらいいですね。


そして最後は、「今日の響いたことば」メモ♪

 言語造形とは、
 ことばの、ことばたるところまで遡る朗読術。


ことばの“意味”だけにとらわれず、
ことばそのものの持つ、音楽性と彫塑性を表現する。

もっと意味から自由になり、ことばの生きた形、ことばたるところを表現すると、
自ずとそのことばの精神が現れ、人々と分かち合うことができる。

・・先日の発表会で素晴らしい語りだったという芥川龍之介の「蜘蛛の糸」。
聴いていた幼い子どもたちにとって、意味は難しかったであろうに、皆最後までじっくりと
耳を傾けていた・・という話を思い出した。

まずは“意味”なんてどうでもいい!
“音”の上で遊ぶんだ!

「ういろう売り」の、あの生きたことばの面白さとトキメキを、私もきっと体得しよう!と思った。

ことばのことばたるところ、そこにこそ、言語造形は迫っていきます。
そうしたことばの様々な要素にまで、こころをこめて迫っていくこと、
それが、このような集中した学びができるこの学校だからこそできる大切な課程です。
ことばに対する宗教的なこころもちを育めるまでにみずからのこころを言語造形を通して育んでいきたいですね。(諏訪)
posted by kotobanoie at 21:02| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月24日

腰で語る (ちまる)

前回の練習で教えてもらった「息を吐ききること」を
今回は特に意識して取り組んでみた。

ところが、なんだかますます「間(ま)」が不自然になってしまったような。。

 ↓

あくまで「歩くこと」と噛み合っていないとダメだということだった。
歩きながら、自然に出てくる呼吸の深さで語る。

でもこの“自然”というのが難しくて、
無意識の自然さでは、私はどうやら呼吸が浅いらしいから、
意識的に深く、吐ききり、なおかつ自然でいなくてはいけない。。(うう!)

呼吸というものは、しようしようとして、するものではなく、(そのときは大抵、足の動きが止まってしまっています) 足からの動きに促されて、おのずと(自然と)なされるようになるまで練習するのです。



それと今回教わったのは、女性のセリフのところ。

娼婦でありながら、「まことのこころ」によって奇跡を起こすインドの女性。

彼女のセリフを語るときは、「腰」で語るのだそうだ。

肩の力は抜いて、腰で、
しなやかにどっしりと語ってみる。

腰を意識しながらやってみると結構面白かった。
これでどんなことばの響きが生まれてくるのだろう。

基本として、ことばを話すとき、センターを、腰のかなめ、もしくは臍下丹田と言われている
ところに感じていていいのですが、特に女性の女性たるところを引き上げる時、そんなふうに骨盤をより感じながら、歩きつつ、ことばを話していくこと。
これからも、試行錯誤しながら、やっていきましょう!(諏訪)
posted by kotobanoie at 11:31| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月22日

練習をつづけること (M)

練習をつづけること
毎日、毎日練習すること。
その長さは別として、この4月から取り組んできたのは、結局これでした。
それ自体が、自分の心と向き合う練習でもあったと感じています。
現在進行形です。

最初、10分の練習をするのにも苦しみました。
「できない」という思い、考えにとらわれるのが、ちょうどそのくらいの時間帯、
そして回数でいえば3回目くらいからだったでしょうか。
その時期に、繰り返し思い出していたのは、「出来栄えを気にせずやりつづけること」
という先生からの言葉でした。
一方これは、出来栄えを気にしてしまうことを自分で責めてしまって
なかなかうまくいきませんでした。

考えてみれば、この「できない」という思いとの戦い?の中での数か月でした。
ある時は、人に「お前はできなかろう」と言われれば「何くそ」と思うはず、と考え、
紙にでかでかと、「できない」と書いて壁に貼っていたこともありました。
それは結構効果があって、できないという言葉が外から聞こえてくるようになってきました。
できない、と自分が自分にいう言葉として頭の中で響いているうちは、
どうしてもそこから逃れられなかった。
けれども、それが外に出た瞬間に、外からくる言葉として距離がとれるようになった。

そういう感じでした。
それをひと月ほど繰り返して、練習時間自体が少しずつ伸びていきました。
伸ばそうという気はなく、自然に。

次に現れてきたのは、身体を使う、というキーワードでした。
去年の『藪の中』の時から、どうしても「語る」ということのイメージがつかめませんでした。
先生のいう、「いい舞台」のイメージがどうしても捉えられなかったのです。
そのため、何に向けて練習していいかが、わからなかった。
それでも自分自身は何かここで学ぶことに予感を持っている、
見通し難い二つのもやもやの間で、気持ち悪い思いをしていたのです。
その中で、自分は何を予感してここに通ってきているかを問い直そうと思った時があり、
それは結局、「身体」だ、ということに思い当りました。

「身体を使って表現をすること」を求めている。

ということで、身体との付き合いが始まり、そのころ、「歩く」「走る」というキーワードが、
自分の身体に落ちてき始めました。

実際に歩いたり、走ったりを毎日続ける、ということがそれを促してくれました。
その頃になると、10分だった練習時間は数時間になってました。

さて、ところが、この間にも問題は山積みでした。
「できない」ということから距離を置けるようになったら、次には、
「できなくてもいい」のか、という考えがあらわれてきます。
けいこ場で先生に言われること、こうしてくれ、といわれることはあるわけです。
それがあるからこそ、「できない」とも思う。
また同時に、練習する必要も当てられるわけです。
しかし、できない、と思えば思うほど、身体は重くなる。
その「できない」という思い、から距離をとる、すると、
ここで「意欲」の問題があらわれるのです。

練習をするとき、まず第一に「判断を手放すこと」があるとすれば、
その次には、意欲を持ってとりくむこと、です。
距離がとれると、ただ量をこなすこともできてしまう。
それでは心持ちが悪い。
ところが意欲を出そうとすると、判断がむくむくと起き上っても来るのです。
意欲が、できるようになろう、という方向に働くからでしょう。
ここは、いっけん袋小路のように思いました。

光は意外なところからさしてくるもので、
そこから一歩を踏み出すきっかけを与えてくれたのは、
「意識」という言葉でした。または「観察」です。
先生は、くりかえし、「その時の身体や心の状態を観察してみてください」と言われます。
そして意欲を、「できるようになろう」ではなく、「観察しよう」に振り向けることは、
比較的簡単にできるのです。
どんな状態になっているだろう、としっかり見ること。
それは端的に楽しい作業です。

おそらく、判断を手放し、意欲を持ってとりくむこと、というのは、
「成果への愛でなく、行為への愛」という言葉に集約されているのでしょう。

「毎日練習をする」ということに取り組むだけでも、何重にも絡み合った自分が見えてきます。
少なくとも、これを続けよう。
そう思っています。

ここで書いたことは、文脈の都合上、まるで自分で気づいたように書いていますが、
講座で語られたことや、稽古場やその他で先生に語っていただいたことが、反映されています。


やはり、この言語造形という芸術も、あるところまでは、「科学」なのですね。
「精神科学」。
扱う素材は、みずからの精神とこころとからだと呼吸と声。
つまり、人まるごとなのですね。
そこに生きた法則を見出していくためには、
その素材に対する敬いと尊びの念(おも)いを育んでいくことが前提となります。
(自然科学者もこのことの重要性にどんどん気づいてきているようです)
みずからに対するそのような念いをどう育んでいくか。
そのことをMさんは、やはり仕上がり済みの答えを求めることへの違和感から、
みずから、苦闘して、それを見出す道を、もう、歩んでいるのですね。
自分自身で問いを立て、その答えをその都度見出し、また、その答えにずれを感じて、
また新しく問いを立て直す。
この繰り返しが、その人をその人にしていきます。
借り物ではない、その人のことばが花開くまでのプロセスは、やはり一筋縄ではいかないものではないでしょうか。(諏訪)
posted by kotobanoie at 21:30| Comment(3) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月19日

手足で考える (ちまる)

●午前:言語造形

“歩いて”語ることは再びできるようになってきた。

でも、まだ呼吸が浅いと言われた。
ちゃんと全部を吐ききってから、次のことばを語るように。
その少しの「間(ま)」で、観客がお話に付き合えるか、付き合えないかが決まるのだと。

だがその「間」を気にしだすと、
今度は次のことばを語り出すのに迷いが生じて足が止まってしまう。
その都度吐ききって語る練習をしてみよう。

ことばを話すとき、息を吐ききることが本能になるまで、稽古してみること。
息を吐ききるということは、勇気がいりますね。
それは、自分自身の呼吸への信頼、ひいては、自己への信頼を培っていくことにも繋がってきます。
からだまるごとを使って何度も何度もやってみることを通してのみ、そのことの意味が分かってきますし、そのことを通してのみ、その人が本来持っている声を外に響かせられます。その声がいきいきと人に届きます。
そしてそこからおのずと、「間」が生きたものとして生まれてくるはずです。
この基礎を何度も徹底してやっていきましょう。(諏訪)


●午後:講義

俳優修業においては、
思考(考えること)が、頭から胸へ、胸から手足へという道を辿るべきと教わった。

物語を

頭で考える (頭で内容を理解する)

胸で考える (内容に想いを寄せる)

手足で考える (手足が語っている)

手足が考えている状態というのは、
たとえば大工さんが金槌を打っているときの状態、
たとえば主婦が包丁で千切りをしているときの状態、
・・・つまり、頭では何も考えずに手足が勝手に動いている状態。

「ああ語ろう、ここの間合いはこうしなきゃ」・・・などとは一切考えずに、手足が語っている。
まさに稽古を重ねてのみ到達できる境地だ。

「考える」がからだに浸透してしまうまで、「飽きるほど稽古しておみ」(京舞の井上八千代さんのことば)。(諏訪)
posted by kotobanoie at 13:24| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。